楫取素彦~至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり~

楫取素彦(かとり もとひこ)という人物をご存知でしょうか。
明治政府に任命された群馬県初の県令(現在の県知事)で、近代群馬の基礎を築いた人物です。

今年平成24年は楫取の没後100年で、「楫取素彦顕彰会」ができ、『楫取素彦読本』がつくられました。
著者は同会長にして、中村紀雄県議です。
小中学生向けに書かれた、平易で読みやすい本です。
同書を下敷きにして、本ブログで楫取の人生とその業績の一端を紹介したいと思います。

楫取素彦は、長州(現山口県)萩の生まれです。
幼いころの名を、小田村伊之助といいました。
大変かしこい子で学問に励み、殿様に認められ、班で重要な役目を担うことになりました。
「楫取素彦」とは、「お前は国の楫(かじ)を取る人間になれ」と殿様が命名したものです。

楫取素彦が25歳の時、ペリーが来航し、幕末という激動の時代が始まります。
楫取と同じ長州藩には、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎がおり、他藩には坂本龍馬らがおりました。
これらの志士らと楫取は深く交わり、学びあい助け合いました。

楫取素彦は、吉田松陰の妹を妻にし、松下村塾とも深く関わりました。
吉田は差別に反対し、平等に理解を示しました。
この吉田の考えが、後述する楫取の女性解放運動につながります。
また、吉田が死ぬ前に「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり(人は真心をもってすればどんな人でも感動しないものはない)」という言葉を楫取に送っています。
さらには、松下村塾を楫取にすべて任せるといって、吉田は死んだのです。
この事実から、吉田松陰が楫取素彦に絶大なる信頼を寄せていたことが分かります。

ちなみに、楫取素彦という人物自身は、平和を好む誠実な学者肌でした。
そのため、殿様から、諸藩や公卿との交渉役を任されていました。

さて、明治の世になり、初代県令楫取素彦が誕生しました。
楫取の業績を、(1)人づくり、(2)新産業(生糸業)、(3)廃娼運動、の3つに分けて見ていきましょう。

(1)人づくり
楫取素彦は、道徳教育に力を入れました。
道徳教育の上に、知識が必要だという考えを持っていました。
さらには、教育環境の整備にもつとめました。
義務教育を理解していなった当時の県民を説得し、豪農や豪商に資金を出させ、小学校を建設させたりして就学率を全国トップレベルに高めました。
就学率の点では、「西の岡山、東の群馬」と称されました。

(2)新産業(生糸業)
楫取素彦は、近代群馬を支えた新産業である生糸業にも力を入れました。
現在、県庁所在地は前橋です。
生糸業を新産業として発展させることによって群馬を興そうとした楫取は、多くの生糸商人が活躍する前橋の地に県庁舎を設けることが得策と考えました。
その考えのもと、群馬の県庁所在地は前橋になったのです。
楫取の、生糸業への並々ならぬ熱意が伝わってきます。

(3)廃娼運動
かつて群馬の街道上に宿場があり、遊郭がありました。
遊郭の存在は、人々の勤労精神を蝕み、子どもたちの教育環境を破壊しました。
遊郭のあるところ、市が立たず、子どもは郭ごっこをするといわれました。
したがって、教育と産業の発展を目指す楫取素彦にとって遊郭は許せない存在だったのです。
廃娼運動の中心は、県令楫取と第2代県議会議長湯浅治郎でした。
紆余曲折を経て、群馬県は日本で最初の廃娼県となり、「金字塔を打ち建てた」と全国から賞賛を受けることになったのです。

こうした業績を残したのが、初代群馬県令楫取素彦です。
吉田松陰が楫取に送った、「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という言葉を体現した人物ではないでしょうか。

群馬の礎を築いた人物として、もっと知ってもらいたいと思い、ここに記しました。

(金井康夫事務所より)

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